牧之原台地とお茶の写真

牧之原台地とお茶

東洋一といわれる広大な牧之原台地の大茶園。
広さは東京ドーム約560個分、5,000ヘクタールにもなり、
新茶摘み採りの季節には台地一面が鮮やかな緑色に染まります。
その歴史は明治初期、江戸で活躍した武士たちによる開拓から始まりました。

牧之原台地とお茶

写真1
中條景昭
写真2
牧之原開墾紀功之碑
写真3
牧之原士族開墾地図面
写真4
沖田源蔵
写真5
丸尾文六
写真6
丸尾文六茶園之図

礎を作ったのは徳川家の家臣たち

慶応3年(1867)、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還により駿府(今の静岡市)に隠居します。護衛のために同行した家臣(精鋭隊、後の新番組)は、徳川家が版籍奉還により藩知事になると、その任務を解かれ職を失ってしまいます。
そこで明治2年(1869)、中條景昭を隊長とした約300人の士族が、新たな就業の場として、荒れ野原だった牧之原台地における茶畑の開墾を決断。当時、すでにお茶は輸出品として重要であり、静岡県内にはいくつかの茶産地が形成され、静岡市に茶問屋がありました。

川越え人足も参加

明治3年(1870)、大井川の渡渉制度・川越し制度が廃止され、大井川の両岸にいた約1300人の川越え人足も職を失ってしまいます。
世話役・沖田源蔵が総代となって、川越え人足救済の懇願活動を続け、苦労の末、牧之原南部への入植が認められ、33人の川越え人足と家族が入植しました。開拓の世話人・丸尾文六らの尽力により開拓が進められます。

農民たちも進出し、急速に拡大

士族や川越え人足たちの茶園造成に刺激を受けた農民が牧之原の開墾に進出。農民の進出により茶園は急速に増え、明治10年代の後半になると、お茶を主作とする茶業農家が多く出現します。
その後の茶業不況などもあり、士族は徐々に牧之原を去りましたが、一方で、農民たちは茶園面積を増やし、経営規模を拡大して牧之原茶業の主役を果たすようになっていきます。

日本を代表する「牧之原茶」ブランドへ

後年、茶葉の品質向上が図られるとともに、戸塚豊蔵や今村茂兵衛らによって「深蒸し茶」製法の原型が考案されました。この芳醇な香りを持つお茶の評判は日本全国に知れ渡り、今日の「静岡牧之原茶」ブランドの発展につながっていきます。